福太郎の日記

備忘録

春歌上 その1

和歌が苦手なので、『定家八代抄』を読みながら和歌を勉強したいと思います(続くところまで)。底本は、岩波文庫『定家八代抄 続王朝秀歌選』(樋口芳麻呂・後藤重郎校注)を使用しますが、読みやすいように句切れなどには句読点を付けます。

 

  旧年に春立ちける日よめる  在原元方

1.年の内に春はきにけり。一年を去年とやいはん、今年とやいはん

「けり」は気付きのけり。「や」は疑念。古今集の一首目で、とても有名な歌。

「先づ古今集といふ書を取りて第一枚を開くと直に「去年とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る実に呆れ返つた無趣味の歌に有之候。日本人と外国人との合の子を日本人とや申さん外国人とや申さんとしやれたると同じ事にてしやれにもならぬつまらぬ歌に候。」……と、正岡子規は言った。

 

  立春の心を  壬生忠岑

2.春立つと言ふばかりにや、み吉野の山も霞みてけさは見ゆらん

「や」は「らん」にかかる(結びの省略ではない)、「らむ」は現在推量…と思ったが、現在の原因推量かも(疑問もあるし)。立春と言うだけで、今朝は吉野の山もかすんで見えるのか?(眼前では見ていない)/立春というだけで、どうして吉野の山も今朝はかすんで見えるのだろうか?(眼前で見ていて、その原因を推量する)……原因推量の方が良さそうだ。

 

 (立春の心を) 源重之

3.吉野山みねの白雪いつ消えて今朝は霞の立ちかはるらん

「らん」は現在の原因推量。いつの間にか吉野山の白雪が消えて、春霞になっている。一体いつ変わったの!?

 

 (立春の心を) 後京極摂政

4.み吉野は山も霞みて白雪のふりにし里に春はきにけり

藤原良経

遠くの吉野山で春霞が見えて、ああ、あの古都にも春が来たんだなあ…

 

 (立春の心を) 院御製

5.ほのぼのと春こそ空にきにけらし。天の香具山霞たなびく

後鳥羽院

まだ地上にまでは来てないけれども、空には段々とあの春が、来たようだなあ。天の香具山に霞がたなびいているよ。

 

 (立春の心を) 凡河内躬恒

6.春立つと聞きつるからに春日山きえあへぬ雪の花と見ゆらん

「あへぬ」は「~しきれない」「~できない」、「らん」は現在の原因推量。

立春」と聞くと、なんで春日山に解けきらずに残っている雪が花に見えるのか。

 

6首目がオシャレ。耳に入った情報で、残雪が花に見えたり。単なる見立てとは違う感じがする。「春が空に来たらしい」と詠む5首目も良い。きっと遠くの山にかかる霞を見ている後鳥羽院は、地上で厚着をしているんだろう。

1首目は超有名(と同時に正岡子規の中傷も有名)。今で喩えるとどうなるんだろう……楽しみなコンサートの前日、0時を過ぎた時に「もう今日コンサートじゃん!」という感じ?車で旅行中、目的の県の県境を過ぎた時に「もう○○県じゃん!」みたいな気持ち?正岡子規が言いたいことも前半は分かるけど、後半の喩えはズレている。

 

【人物について】

以下、紹介文は全て『世界大百科事典』(平凡社)より。▼は感想。

 

在原元方

平安前期の歌人。生没年不詳。寛平から天暦の初年にかけて活動。在原棟梁(むねやな)の子。業平の孫。官は六位。《古今集》に14首,《後撰集》に8首,以後の勅撰集に計8首入集。《古今集》巻頭に〈ふる年に春立ちける日よめる 年の内に春は来にけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむ〉があり,北村季吟は《八代集抄》で〈当集の巻頭面目比類なき事也〉と評した。しかし,正岡子規は《うたよみに与ふる書》で〈呆れ返つた無趣味の歌〉と論難している。[奥村 恒哉]

▼ここでも出てくる正岡子規。「この歌まことに理つよく、又おかしくもきこえて、ありがたくよめる歌なり」(藤原俊成『古来風体抄』より)。

 

壬生忠岑

平安前期の歌人。生没年不詳。三十六歌仙の一人。《古今和歌集》撰者の一人。忠見の父。和泉大将藤原定国随身,左近衛の番長などを経て,905年(延喜5)には右衛門の府生であった。左近衛将監,御厨子所預,摂津権大目などに任ぜられたらしいが,《古今集》撰者の中では最も卑官であった。《古今集》以下の勅撰集に84首,家集に《忠岑集》がある。和歌を10種類の歌体に分け,5首ずつの例歌と歌体の説明を漢文で施した歌論書《和歌体十種》(《忠岑十体(ただみねじつてい)》ともいう)は忠岑作と伝えられるが,最近では忠岑に仮託されたとする偽書説が有力である。《和歌体十種》を根拠として,忠岑は90歳ころまで生存したとされていたが,もう少し早い時期に没したらしい。初春の清新な気分を詠んだ〈春立つといふばかりにやみ吉野の山も霞みて今朝は見ゆらむ〉(《拾遺集》巻一)にみられるように,端正で平明な表現の中に静かな抒情をただよわせた歌が多い。[小沢 正夫]

▼今回取り上げられた和歌が「端正で平明な表現の中に静かな抒情をただよわせた歌」と評されている。立春を迎えた、それだけでどうして吉野山は霞むのだろう……眼前に広がる光景と、暦とがクロスしていることを不思議に感じている、これが静かな抒情かな。「え!?なんで!?」じゃなくて「確かにそうなるのは分かるんだけど、なんとも不思議だなあ~」って感じかな。

 

源重之

平安中期の歌人。生没年不詳。清和天皇の曾孫。父は従五位下兼信。帯刀長(たちはきのおさ)在任中に東宮に献じた百首歌は整った形式の創始期の作として知られる。その後967年(康保4)に従五位下右近将監,さらに左馬助,相模権守等に任ぜられたが,995年(長徳1)ころ陸奥に下り,同地で没した。歌集《重之集》に陸奥をはじめ旅の歌が多く,百人一首に〈風をいたみ岩うつ波のおのれのみ砕けて物を思ふころかな〉(《詞花集》巻七)が入る。三十六歌仙の一人。[藤岡 忠美]

壬生忠岑と続いて武官っぽい人。今回取り上げられていた歌は、拾遺集では「冷泉院東宮におはしましける時歌たてまつれとおほせられければ」という詞書きが付いていたので、文中にある「帯刀長在任中」の歌でしょう。

 

後京極摂政=藤原良経

平安末~鎌倉初期の廷臣,歌人。摂籙(せつろく)家九条兼実の子として生まれ,左大臣を経て従一位摂政太政大臣に昇る。和歌を藤原俊成に学び,建久期前半(1190-97)には,歌壇を主宰して定家ら新風歌人の庇護者となり,《花月百首》や《六百番歌合》を開催。建久7年(1196)の政変により一時籠居したが,のち政界に復帰し,後鳥羽院歌壇においても中心人物として《新古今集》編纂に貢献した。仮名序を執筆し,巻頭歌作者となっている。漢詩を摂取した,独特の清澄高艶の歌風に見るべきものがある。《新古今集》竟宴の翌年,急逝。家集に《秋篠月清(あきしのげつせい)集》があり,《千載集》以下の勅撰集に313首入集。また,書にもすぐれた才能を発揮し,〈後京極流〉の始祖となる。〈般若理趣経〉(仁和寺)や,数通の書状類のほか,〈佐竹本三十六歌仙切〉〈紫式部日記絵巻詞書〉〈豆色紙〉〈和漢朗詠集切〉などの筆跡を残した。[上条 彰次]

▼摂籙は摂関のこと。京極殿は藤原道長の邸宅で、その嫡男藤原頼通(宇治の平等院に隠居したから宇治殿とも呼ばれる)に伝領し、さらにその嫡男の藤原師実(京極殿、また父と同じく宇治に隠居したため、後宇治殿とも)に伝領された。なんどか焼亡しているらしい。

頼通(よりみち・宇治殿)―師実(もろざね・京極殿)―師通(もろみち)―忠実(ただざね・知足院殿 /富家殿 ・父急逝に伴い祖父師実の養子に)―忠通(ただみち・『台記』で有名な悪左府頼長の兄)―九条兼実(後法性寺関白)―九条良経(後京極)……となり、「京極摂政」は既に師実がいるから良経は「後京極摂政」(なのか?)五摂家とかちょっとややこしいので間違いがあるかも。

 

後鳥羽院後鳥羽天皇

1180-1239(治承4-延応1)

第82代に数えられる天皇。在位1183-98年。高倉天皇の第4皇子。名は尊成。母は坊門信隆の娘殖子(七条院)。1183年(寿永2)平氏安徳天皇を伴って都落ちした後,祖父後白河法皇の詔によって践祚践祚の後も後白河法皇院政を行ったが,92年(建久3)法皇の没後は,法皇と対立していた関白九条兼実が実権を握った。源通親法皇の旧側近はこれと対立し,96年通親は策謀によって兼実を失脚させ政権を握った。98年後鳥羽天皇は通親の外孫にあたる皇子為仁(土御門天皇)に譲位,上皇として院政をはじめ,1221年(承久3)まで,土御門・順徳・仲恭天皇の3代にわたり院政を行った。院政開始後も通親が実権を持っていたが,1202年(建仁2)通親が没して後は後鳥羽上皇の独裁となった。上皇は貴族間の対立を克服し,すべての貴族が上皇を補佐する体制の確立を図り,通親に抑えられていた九条家一門などをも重用した。上皇はまた将軍源実朝との関係を密にし,上皇の主導の下に朝幕の融和を進め,生母の弟である坊門信清の娘を実朝の妻として鎌倉に下した。上皇は水練,相撲,狩猟などをたしなみ,刀剣を製作,鑑定し,西面の武士を置いたりしたが,これらは討幕のためではなく,武者の世には帝王にも武芸のたしなみや軍事力が必要だと考えたためである。

▼流石に後鳥羽院は長い。践祚(せんそ)は帝の位を継ぐこと。九条兼実は一首前の後京極摂政九条良経の父。

 

 朝幕関係は最初は円滑であったが,実朝は実権を持たず,執権北条氏は上皇が実朝を介して御家人の権益を侵すのを懸念し,しばしば上皇と対立した。そのため両者の関係はしだいに悪化し,1219年実朝が殺されると上皇はついに討幕を決意した。実朝に子がなかったため,幕府は上皇の皇子を将軍に迎えようとし,内約も交わされていたが,実朝の死によって幕府の瓦解を望む上皇は,皇子の東下を許さず,かえって摂津国長江・椋橋両荘の地頭の改補を幕府に命じた。幕府はこれを拒み,上皇との対立はさらに深まった。結局頼朝の遠縁に当たる九条頼経が鎌倉に下ったが,上皇はこれにも不満で,討幕計画を進め,21年執権北条義時追討の宣旨を発して挙兵,承久の乱がおこった。しかし幕府軍の前に上皇方は完敗した。上皇は出家(法名は金剛理,あるいは良然)の上に隠岐に流され,18年の配所生活の末,同地で没した。御陵は京都市左京区の大原陵と隠岐の海士町陵。朝廷は上皇顕徳院の諡(おくりな)を贈ったが,上皇の怨霊出現のうわさがあり,42年(仁治3)あらためて後鳥羽院追号した。

九条頼経鎌倉幕府の四代目将軍。後京極摂政九条良経の次男である九条道家の三男。

 

 上皇は和歌に秀で,和歌所を置き,《新古今和歌集》編纂にあたった。また蹴鞠,琵琶,奏箏などの芸能にもすぐれていた。上皇は多数の所領を持ち,豊かな財力によって各地に院御所を造った。水無瀬,鳥羽などにはとくに壮麗な離宮を営んだ。社寺参詣も多く,紀伊の熊野への参詣は,約30回に及んだ。著書には《新古今和歌集》のほか,《後鳥羽院宸記》《世俗浅深秘抄》《後鳥羽院御集》《遠島御百首》《後鳥羽院御口伝》《無常講式》がある。[上横手 雅敬]

 

凡河内躬恒

平安初期の歌人。生没年不詳。寛平~延喜のころ活躍。延喜21年(921)1月30日任淡路権掾とあり,これが晩年の,おそらく最高位であろうから,官途としては不遇であった。しかし歌歴は華々しく,はやく《寛平后宮歌合(かんぴようのきさいのみやのうたあわせ)》(893・寛平5以前)に紀貫之らとともに登場し,《古今集》の4人の選者の一人であった。入集も60首で紀貫之についで第2位である。907年9月に宇多法皇の大堰河(おおいがわ)の御幸があり,躬恒も供奉して歌を奉った。躬恒は貫之とともに常に宮廷にあって歌を作った歌人である。貴紳の依頼による作歌の機会も多く,歌人としての声望は大きい。歌風は貫之に比して軽快,それだけに親しみがもてる。家集の《躬恒集》は,約230首を収め上下あり,詞書も詳しく,信頼度が高い。〈心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花〉(《古今集》巻五)。[奥村 恒哉]