福太郎の日記

備忘録

春歌上 その3

  寛平御時后宮の歌合歌 源当純

13.谷風にとくる氷のひまごとに打ち出づる波や、はるのはつ花

最初は四句切れの和歌かと思ったが(波なのだろうか、春の初花は。)、それだと「波なるや」とかになるのか(?)。川の波を花に見立てているけれども、氷が溶けてその間に生じる波って、なんともささやかな感じがする。凍った川が溶け出す姿を見たことがないけど、もしかして水かさが増して却って激しくなるのか?ストラヴィンスキーが「3つの日本の抒情詩」という曲の中で、この詩を題材にしているらしい。

谷から吹いてくる風で、融ける氷のあいだあいだから流れ出る川波が、春の最初の花であろうか。

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  題しらず 山部赤人

14.「あすからは若菜つまむ」としめし野に、昨日も今日も雪はふりつつ

明日から若菜摘みしよ!と思ってたのに、昨日も今日も雪が降って、全然若菜摘み出来ない…ってこと?なんかカワイイ 早く新しく買った自転車を使いたいのに、雨が降りつづいているせいで全然外に出られない…という感じかな。

 

  (題しらず) 平兼盛

15.今日よりは荻の焼原かきわけて、「若菜つみに」と誰をさそはん

今日から、荻の野焼きをしたところをかきわけて、「若菜摘みに行こう」って誰を誘おうかな?(チラッと誘いたい人を横目で見ながら…)ということ?これもカワイイ。「明日からやる映画、YouTubeで予告見て面白そうだったから見に行きたいんだけど、まだ一緒に行く人決まってないんだよね~~」とか言ってる人いそう。

 

  (題しらず) よみ人しらず

16.春日野の飛火の野守出でて見よ。今いくか有りて若菜つみてん

「てん」は確述の「つ」未然形に推量「む」の連体形(疑問の副詞があるから、文末は連体形)。「飛火の野守」は「のろし台の番人」のことらしい。野焼きをしている人のことか。「春日野ののろし台の番人さん、出てきて見なさい。後どれくらいで若菜が摘めようか?」……だから、『となりのトトロ』で、どんぐりを植えたサツキとメイが、いつになったら芽が出るかな~って楽しみに見守っているシーンを思い出しました。

 

  (題しらず) (よみ人しらず)

17.深山には松の雪だに消えなくに、都は野べの若菜つみけり

木の上の雪すら消えないなら、若菜摘みなどまだまだ先のよう。子どもの頃、田舎住まいだったので、漫画もおもちゃも都会よりも届くのが遅くて、テレビで発売日を見ても「ああーまだここには来てないのに……」とやきもきしていましたが、あんな感じかな。

 

  (題しらず) (よみ人しらず)

18.梓弓おしてはるさめけふふりぬ。あすさへふらば若菜つみてん

梓で作られた弓をおして弦をはる――春雨が一面に今日降った。明日も降ったら、きっと若菜が摘めるだろう。「はる」が「張る/春」の掛詞で、「梓弓おして張る」⇒「春雨今日降りぬ」とかかっていく序詞。グググッとおして弦を張った梓弓と、翌日以降にパッと芽吹くであろう若菜のイメージが重なります。修辞技法なんて使っちゃってるけど、これもわくわく感が隠しきれない感じがカワイイ。

 

  みこにおはしける時、人に若菜賜はせける御歌 光孝天皇御製

19.君がため春の野に出でて若菜つむ。我が衣手に雪はふりつつ

百人一首にも採られる有名な歌。あなたのために春の野に出て若菜を摘みましたよ。私の衣の裾には雪が降っていましてね……。前半は可愛いけど後半はなんだか恩着せがましい。「ケーキ好きかなと思って、買ってきちゃった。人気店だから一時間も並んじゃったんだけどね」っていうと、まあ言っちゃうか。並んだこと、言いたいもんね。東京は目白にあるエーグルドゥースってケーキ屋さん、とっても美味しくて関東に住んでいた時にはたまーに買ってたけど、やっぱり誰かに買っていくときには言っちゃってたもんね、「ここ有名・人気店でさー」って……。

 

  歌奉りける時 紀貫之

20.春日野の若菜つみにや。白妙の袖ふりはへて人のゆくらん

絵が浮かぶから、屏風歌とかか?「にや」は断定「なり」連用形+疑問の係助詞「や」で、結びの省略。「ふりはふ」は「わざわざする・あえてする」意の副詞らしいけど、岩波文庫の訳は「勢いよく振る」となっている。三省堂『例解古語辞典』を引くと、ちょうどこの歌が用例として出ていて、「袖振」で「ふりはへて」を導いている、とあった。だから「袖を振り、わざわざ行く」ということだろう。「らん」は現在の原因推量。

「春日野の若菜を摘みに行くのだろうか。真っ白な袖を着た人がなぜ袖を振りわざわざいくのであろうか。」春日野に白い服を着た人々が袖を振りながら行く絵があって、それを見て「わざわざ白い袖を着た人が袖を振って行くなんて、若菜摘みにでも行くのかな?」という感じ?

 

  堀川院に百首奉りけるとき 源俊頼朝臣

21.春日野の雪を若菜につみそへて、けふさへ袖のしをれぬるかな

春日野の雪を若菜に加えて摘んで、今日まで袖が萎れて濡れましたなあ。

うーん……だから何って感じ……。元歌は千載和歌集のようだから、あとで図書館で確認しよう。

 

若菜シリーズカワイイ!ってなって多めに読んだけど、後半二首はあんまり可愛くないな。

 

 

【人物について】

以下、紹介文は全て『世界大百科事典』(平凡社)より(源当純は新全集の作者紹介より)。▼は感想。

 

源当純

右大臣正三位兼右近衛大将能有の五男。寛平六年(八九四)太皇太后宮少進、延喜三年(九〇三)少納言、同七年従五位上

▼一般の辞書には情報がない人。歌もそんなに勅撰集には採られていないのか?この一首だけで名前が残る人かも。

 

山部赤人

万葉集》の代表的歌人。生没年不詳。姓(かばね)は山部宿禰(すくね)。歴史に見えず,身分低い官人であったと思われる。724年(神亀1)聖武天皇即位のころから作歌が見え,736年(天平8)に及ぶが,主要作品は長屋王が政権を掌握していた728年までに集中する。王の庇護を受けた歌人であったらしい。その間,天皇紀伊,吉野,播磨,難波などの行幸に供奉(ぐぶ)し,多く長歌反歌から成る賛歌を作るかたわら,時期は不明だが,下総,駿河,伊予などにも旅をし,真間手児名(ままのてこな)の伝説や富士山などを詠じている。作品は長歌13首,短歌37首,計50首。作品のあり方から,柿本人麻呂の流れを汲む宮廷歌人であり,行幸従駕のおりに赤人と同行している笠金村(かさのかなむら),車持千年(くるまもちのちとせ)とも同系の歌人で,彼らの後輩であったらしい。長歌は人麻呂と比較され,独創性の不足,迫力のなさがいわれているが,賛歌は先例のある型や表現によるのが当然であり,そのうえで新味を加えようとした。漢詩文盛行の時代を意識して,長歌は整然たる対句を用いており,形式的にきわめて緻密に構成されていて端正なのが特色である。また印象的,美的な自然把握にも見るべきものがある。短歌は先輩歌人高市黒人(たけちのくろひと)の叙景歌を継承して進め,自然を客観的に写実風にとらえて,繊細・優美にして清澄・温雅な作風を示す。自然を深く愛した性情に基づくものであろう。この点で万葉後期の大伴家持らに敬慕されるとともに,その耽美的な自然観は平安時代歌人にも愛され,影響を与えた。家持は赤人を人麻呂と並べて〈幼年に未だ山柿の門に逕(いた)らず〉と嘆いたが(〈山〉を山上憶良とする説もある),紀貫之もまた《古今集》序で人麻呂と並称してたたえている。近代に至って島木赤彦らの作風や歌論にも強い影響を与えた。〈ぬば玉の夜の更けゆけば久木(ひさき)生(お)ふる清き川原に千鳥しば鳴く〉(巻六),〈春の野に菫(すみれ)摘みにと来しわれぞ野をなつかしみ一夜寝にける〉(巻八)。[橋本 達雄]

▼真間手児奈の伝説については、市川市のホームページで紹介されていた。宮古島のマムヤ伝説と似ている…?

市川のむかし話『真間の手児奈』 | 市川市公式Webサイト

 

光孝天皇

第58代天皇(在位884~887)。仁明 (にんみょう) 天皇第3皇子。母は従 (じゅ) 五位上紀伊守 (きいのかみ) 藤原総継 (ふさつぐ) の女 (むすめ) 沢子 (たくし) 。諱 (いみな) は時康。文徳 (もんとく) 、清和 (せいわ) 、陽成 (ようぜい) の歴代3帝に仕え、一品式部卿 (いっぽんしきぶきょう) となっていたが、宮中の乱脈粛正の意図をもって陽成天皇が廃されたあと、藤原基経 (もとつね) の推挙により即位した。基経とは外戚 (がいせき) 関係になく、才識、人品を見込まれた擁立であり、基経の公正な態度に世人が感服したという。天皇は基経の推戴 (すいたい) の功に報いるため、「奏すべき事、下すべき事、必ず先 (ま) ず諮稟 (しりん) せよ」との勅書を下し、関白の文字はないものの、事実上関白の職を命じた。皇嗣 (こうし) についても基経にゆだねたが、基経は天皇の意をくみ、源定省 (さだみ) (宇多 (うだ) 天皇)を推薦した。[森田 悌]

 

紀貫之

平安前期の歌人,文学者,官人。貫之5代の祖,贈右大臣船守(ふなもり)は,桓武天皇の革新政策をたすけて平安遷都に力を尽くした偉材であったし,祖父本道の従弟有常は在原業平とともに文徳天皇第1皇子惟喬(これたか)親王を擁して,北家藤原氏皇位継承権を争ったほどの輝かしい歴史をもっていた紀氏であったが,貫之の時代には完全に摂関藤原氏の勢力に圧倒されて,政界の表面から影をひそめていた。おそらく父望行(もちゆき)を早く失った貫之は,有常あたりから家系の誇りを教えられて成長した。たまたま宇多天皇菅原道真を重く用いて摂関抑圧の方針を打ち出し,和歌を奨励して朝威の振興を計ろうとしたとき,青年貫之は時流に乗じて家運の再興を夢見たであろう。やがて897年(寛平9)に宇多天皇が退位し,901年(延喜1)に道真が失脚するとその望みも消えたが,醍醐天皇が《古今和歌集》の撰進を命じ,従兄の友則とともに撰者となるにおよんで,和歌の世界に名を挙げる新たな希望が貫之の胸に湧いた。和漢の教養と楽舞の才能を身につけ,誠実努力の人であった貫之は,《古今集》の編纂を通じて歌壇の第一人者の地位にのぼり詰めた。

 しかし官界にあってはまったくの不遇で,延喜年間(901-923)の末年に至っても,相変わらず内御書所預(うちのおんふみのところのあずかり)として,図書の整理や歌集の編纂を本務とし,大内記・美濃介・左京亮などの官職は,俸給を増すための兼官に過ぎなかったから,位階の昇進は極端に遅れていた。930年(延長8)に土佐守に任じられたことが行政官吏として実務に就いた最初であったかもしれない。それだけに貫之は清廉謹直に国司としての職責を果たしたが,その間,醍醐天皇をはじめ右大臣藤原定方,権中納言藤原兼輔など,貫之の後ろだてとなっていた有力者が相ついでこの世を去り,935年(承平5)任終わって帰京したとき,政官界において貫之は孤立無援であった。当時の大家族を扶養するためには権力者に接近して官職を求めねばならない。国司として常識となっていた不正の蓄財をいっさい避けていた貫之としては,和歌の学識をもって権力者の知己を求めるよりほかに道はない。そこで創作したのが《土佐日記》である。和歌初学入門の年少者のためにはおもしろくてためになる手引きの歌論書,また当時の国司の腐敗堕落や交通業者の不正手段を諧謔を交えて痛烈に風刺する一方,貫之自身の精励さや清貧を印象づけ,ひそかに亡児を悲嘆し老境を嘆き父祖の栄光を偲ぶ日本最初の文学作品としての日記がこれであった。やがてその効果は現れて太政大臣藤原忠平父子の庇護を受け943年(天慶6)推定76歳にしてようやく従五位上に昇進したが,従五位下に叙せられてからすでに26年を経ていた。貫之がいかに不遇であったかが知られよう。945年9月,木工権頭(もくのごんのかみ)をもって卒した。その作品は上記の他に《新撰和歌》《自撰家集》《万葉五巻抄》《大堰川行幸和歌序》《貫之宅歌合》などがあり,勅撰に入集する和歌451首,他撰本《貫之集》その他を併せて総数1069首の和歌が残されている。

 貫之にはその誠実な人柄から,伝説はきわめて少ない。勅許を得て和泉の国に創建した船守神社から帰京の途中,蟻通し明神の祟りを受けて馬がたおれたときに和歌を奉納した逸話(《袋草紙》,謡曲《蟻通》など),藤原公任具平親王と人麻呂・貫之の優劣を論争したこと(《袋草紙》),順徳院が《八雲御抄》に〈貫之さしもなしなどいふ事少々聞ゆ。歌の魔の第一也〉と記していること,近代になって桂園派の観念的な歌風を打破しようとした正岡子規が,和歌の即興性を重んじた貫之を理解しえずして《歌よみに与ふる書》で〈貫之は下手な歌よみにて,古今集はくだらぬ集に有之候〉と極論したように,歌人としての貫之の評価にかかわるものばかりであった。[萩谷 朴]