福太郎の日記

備忘録

春歌上 その2

  堀川院に百首歌奉りける時、立春歌  権中納言国信
7.みむろ山谷にや春の立ちぬらん。雪の下水岩たたくなり

三室山「らむ」は現在の原因推量、「なり」は伝聞推定。三室山は桜や紅葉の名所として知られる、こぢんまりとした山。雪の下の方が融けて、そこには水が流れていて、岩を叩く音が聞こえる……ということでしょうけど、雪の降らない沖縄にいるので、情景があまりピンとこない。雪って下から融けることがあるのか?冷え込んで、川が凍って、その上に雪が積もっている。段々と川水も融けてきて、雪の下で流れる音が聞こえる…ということかな。水の流れを聞いて、春の訪れを感じるって良いですね。沖縄で聴覚から感じる春はなんだろう。

三室山の谷では春が立ったのだろうか。雪の下に流れている水が、岩を叩いているようだ。

 

  正月一日、二条后宮にて白き大袿賜りて 藤原敏行朝臣
8.ふる雪のみのしろ衣うちきつつ「春きにけり」とおどろかれぬる
詞書の大袿とか禄として用意する大きな袿で、着用する時に仕立て直す・「降る雪の蓑代衣」と、「古る身」とをかける(新大系・こういう掛詞はどうやって見つけられるのか)。蓑代衣は蓑の代わりに使う衣のこと。「春きにけり」の「けり」は気付き。「おどろかれぬる」は自発の「る」連用形+確述「ぬ」連体形。連体止め。

降っている雪のような真っ白な大袿を、年老いた我が身に簔代わりとして着つつ、「ああ、私にも春が来たのだなあ」とハッとさせられた。

 

  題しらず 曾禰好忠
9.三島江やつのぐみわたる蘆のねのひとよばかりに春めきにけり
「ひとよ」に「一節」と「一夜」を掛け、「ひとよ」までが序詞。「つぐのむ」は「角のむ」とも書き、草木の芽が出ることいい、特にススキやアシ/ヨシ、オギ、マコモなどについていうらしい(日国)。三島江は大阪府高槻市にある場所で、蘆とともによく詠まれる。蘆はしつこい雑草……と昔は思っていたけど、川辺にたくさんの蘆がぶわっと広がっていて、風に揺れている光景を想像すると、確かに春めいていて気持ちが止さそう。三島江について検索すると、高槻市が動画を作っていた。今はバーベキューが出来るように整備されているらしい。わざわざ大阪までバーベキューをしにいくことは無いと思うけど、もしやる機会があるなら、春にやりたいね(大阪も花粉は酷いのかな)。

三島江、そこに一面に芽吹いた蘆の根の一節――たった一晩で春めいたのであったなあ

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  (題しらず) よみ人しらず
10.春霞たてるやいづこ。み吉野の吉野の山に雪はふりつつ

「たてる」の「る」は完了・存続「り」の連体形で、ここは準体言用法。「つつ」は繰りかえしを表す副助詞で、下に「全然春の気配は無いよ」等の言いさしがあるのでしょう。吉野と言えば桜……ですが、古くは雪のイメージが強かったはず。

春霞が立ったのはどこだろうか。この吉野の山にはしきりに雪が降っていて――。

 

  崇徳院に百首歌奉りける時、春歌 待賢門院堀河
11.雪ふかき岩のかけ道跡たゆる吉野の里も、春はきにけり

新大系によると、「世にふれば憂さこそまされ。み吉野の岩のかけ道ふみならしてむ」(古今和歌集・雑下・読み人しらず)の本歌取りらしい。もとの歌は「世間を過ごしていると辛さばかりが増えていくよ。吉野の岩の険しい道を行き来してしまおうか。」という内容か。「ふみならしてむ」を「跡たゆる」といいかえて、辛い思いをしてきた人々が修行にこもり、しかも雪に振り込めたために、誰も訪れない寂しい雰囲気の吉野がイメージされるので、下の句の「そこにも春は来たんだなあ」という、春の明るさが印象に残る感じかな。沖縄から関東に出て、深夜のバイトをした帰り、はじめて見る雪に興奮したのもつかの間、すぐにあまりの歩きづらさに辟易した記憶があります。整備されたコンクリートですらあの歩きにくさ。雪降る険しい岩道なんて、とても人が歩くようなものじゃないでしょう。

雪が深く降りつもる、岩の険しい道に、人跡も絶えた吉野の里、そこにも春は来たのだなあ。

 

  一条院御時、殿上人は春歌とこひ侍りける 紫式部
12.み吉野は春のけしきに霞めども、むすぼほれたる雪の下草

前の歌では「吉野にも春が来たなあ…」と、なんだか気持ちの良い、鬱屈とした冬からの解放を感じられたけれど、そういう気持ちの良い春に逆接が続いて、「むすぼほれたる雪の下草」……雪の下には融けずに凍ったままの草があるよ、なんて、なんだかひねくれた配列。

紫式部集では詞書が違っていて、「正月十日のほどに、春の歌奉れとありければ、まだ出で立ちもせぬ隠れ家にて」とある(清水好子紫式部岩波新書・131頁)。その解説によると「『雪の深い吉野山でさえ春らしく霞が立ち込めていますのに、私は雪に埋もれた下草にひとき身でございます』と答えた下の心は、『中宮様の春の日の光のような御仁慈に浴さぬ身は、いまだに雪に埋もれて芽を出せぬ草のごときもの』と、四季鵜呑みにとって出仕がこの上ない恩恵になるはずだと述べている。……さきの歌の意味はたしかに中宮の恩顧を讃えたものだが、慎重にそれだけにしていて、早く参上したいという積極的な表現はどこにもない。むしろ、かなり渋っている様子が窺えるものである。詞書きにある『隠れ家』というのも、式部の実家ではなく、人に会うのを避けて、身を潜めていた感じがする。」

吉野は春めいた様子で霞が立ち込めているけれど、まだ凍りついたままの、雪の下にある草よ。

 

 

【人物について】

以下、紹介文は全て『世界大百科事典』(平凡社)より(源国信と待賢門院堀川は『国史大辞典』)。▼は感想。

 

中納言国信=源国信

一〇六九 - 一一一一
平安時代後期の公卿、歌人。延久元年(一〇六九)生まれる。右大臣源顕房の四男。母は美濃守藤原良任の女。承徳二年(一〇九八)正月、蔵人頭左中将から参議に任ぜられた。極官は正二位権中納言。天永二年(一一一一)正月十日早暁に出家。同日四十三歳で没した。坊城中納言と号する。堀河天皇の側近に仕え、当時の歌壇の中心的歌人であり、『金葉和歌集』以下の勅選集に多く入集している。
[参考文献]
大日本史料』三ノ一一 天永二年正月十日条、橋本不美男『院政期の歌壇史研究』
(宮崎 康充)

 

藤原敏行朝臣

平安前期の廷臣,歌人三十六歌仙の一人。没年は一説に907年(延喜7)。866年(貞観8)少内記となり,のち897年(寛平9)従四位上右兵衛督に至った。宇多天皇の信任を得,当時の宮廷歌壇を代表する重要歌人であった。《古今集》撰者たちよりも年長で,紀氏,在原氏と親族関係にあった。《江談抄(ごうだんしよう)》などに能書家として知られていたことを伝える逸話があり,京都高雄神護寺の鐘銘が現存している。《古今集》以下の勅撰集に28首入集,家集に《敏行集》がある。歌風は《百人一首》に採られた快いリズム感をもつ〈住江の岸に寄る波よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ〉(《古今集》巻十二)に代表される。[小沢 正夫]

 

曾禰好忠

平安中期の歌人。生没年不詳。姓は曾根とも記す。通称は曾丹,曾丹後。家系や父母の名も不明。丹後掾として六位の卑官にとどまったため宮廷貴族に侮られ,〈曾丹〉と呼ばれた。また,円融院の子(ね)の日の遊びのときに,召しもないのに卑しげな狩衣姿で参上してとがめられ,ついに衣のえりをつかまれて引きずり出されたといった逸話も伝えられている(《今昔物語集》巻二十八)。源順,大中臣能宣源重之ら当時の受領層歌人と交流しつつ,下級貴族に固有な不遇意識を先んじて表現し,彼らに影響をあたえた。960年(天徳4)ごろ百首歌という新形式を創出したときに彼は30歳過ぎであった。その後360首を1年間に割り当てる新形式の〈毎月集〉を発明した。好忠の歌は《古今集》以来の類型をうけながら,反伝統的な耳なれない用語・語法を用いたり,土俗や生活のにおい,愛欲などをうたう歌が目だち,訴嘆の調べが特色である。この特性は新風として後に源俊頼などに受けつがれた。家集に《曾丹集》があり,勅撰集入集歌は《拾遺集》以下に94首。〈鳴けや鳴け蓬(よもぎ)が杣(そま)のきりぎりす過ぎゆく秋はげにぞ悲しき〉(《曾丹集》)。[藤岡 忠美]

 

待賢門院堀河

生没年不詳 平安時代後期の女流歌人神祇伯源顕仲の女。上西門院兵衛・大夫典侍は姉妹。はじめ令子内親王に仕えて前斎院六条と称し、のち鳥羽天皇中宮藤原璋子(待賢門院)に仕えて堀河と呼ばれた。大治元年(一一二六)摂政左大臣藤原忠通)家歌合、また同三年八月父顕仲の主催した西宮歌合などに出詠した。さらには康治二年(一一四三)ころ崇徳上皇が出題下命した『久安百首』の当初歌人十四人のうちに選ばれ、当時の一流歌人として評価された。康治元年二月待賢門院の落飾とともに出家し、久安元年(一一四五)八月女院の死に伴い隠栖した。隠栖後に家集『待賢門院堀河集』を自撰したものと思われ、『久安百首』に詠んだ「長からむ心も知らず」の歌は、藤原定家の『小倉百人一首』に採用された。かなりの老齢で没したらしく、西行の『異本山家集』にも贈答歌がある。中古六歌仙の一人で、勅撰入集は『金葉和歌集』以下に六十六首。
[参考文献]
森本元子「待賢門院堀河とその家集」(平安文学研究会編『平安文学論究』三所収)
(橋本 不美男)

 

紫式部

平安中期の物語作者,歌人。《源氏物語》《紫式部日記》《紫式部集》の作者。生没年不詳。誕生は970年(天禄1)説,973年(天延1)説などがあり,また978年(天元1)説は誤りである。本名も未詳。父は当時有数の学者,詩人であった藤原為時。彼女は幼時に母(藤原為信の女)を失い,未婚時代が長かった。996年(長徳2)越前守となった父とともに北陸に下り,翌々年帰京,父の同僚であった山城守右衛門佐の藤原宣孝と結婚,翌年賢子(のちの大弐三位(だいにのさんみ))を産んだ。1001年(長保3)夏に宣孝が死に,その秋ごろから《源氏物語》を書き始めた。05年(寛弘2)ごろの年末に一条天皇中宮彰子のもとに出仕した。はじめ〈藤式部〉やがて〈紫式部〉と呼ばれるようになる。〈紫〉は《源氏物語》の女主人公紫の上にちなみ,〈式部〉は父為時の官職式部丞による。出仕当初は違和感に苦しんだらしいが,やがて中宮の親任を得て《楽府》の進講をした。また天皇が〈日本紀をこそ読み給ふべけれ〉と賞めたので,同僚から〈日本紀の御局〉とあだ名されたともいう。10年(寛弘7)夏ごろ《源氏物語》を完成し,さらに同年末までに《紫式部日記》をまとめたらしい。一条天皇没後も上東門院彰子に仕え,《小右記》長和2年(1013)5月25日条に〈為時女〉の文字が見える。同年10月ごろから長期間宮仕えを中断したあと,19年(寛仁3)1月に再び彰子のもとに出仕しているが,それ以降は明らかでない。晩年には仏教信仰に傾斜を加え,友人との贈答歌にも無常の色が濃い。日記を通じて見えるその人がらは,強烈な自我を根底としながら表面は慎ましく,調和と中庸を旨とするところがあり,複雑な性格と思われる。

 伝承としては,(1)狂言綺語の罪によって地獄に堕ちたとするもの,(2)その裏返しの,紫式部観音菩薩の化身とするもの,(3)石山寺に参籠の折,湖水に名月が映ったのを見て,〈今宵は十五夜なりけり〉と《源氏物語》を〈須磨〉巻の一節から書き起こしたとするもの,(4)その起筆は大斎院選子内親王から上東門院に珍しい物語をと注文されたためとするもの,(5)紫式部道長の妾であったとするものなどがある。ことに(5)は近来その可能性が注目されているが,信用すべき根拠には乏しい。[今井 源衛]

▼ちょうど今大河ドラマ『光る君へ』の主人公(ドラマでは「まひる」)として再注目されている。史実では、出仕当初の違和感で引きこもることもあったようだけど、ドラマの「まひる」は今のところ引きこもりそうにない。